『タルコフスキー日記』 抜粋①
1970年9月1日
古い書類をかきまわしていたら、大学での『ルブリョフ』をめぐる討議の速記録がでてきた。
どうしてこんなにレベルが低いんだろう!お粗末でくだらない。
しかしひとつだけ。レーニン賞を受賞した数学教授マーニン(まだ30歳そこそこだ)の発言はよかった。私も同じ意見だ。もちろん、自分のことを言うわけにはいかない。だが『アンドレイ・ルブリョフ』を撮っているとき、私も同じように感じていた。だからマーニンには感謝しなくてはならない。
ほとんどすべての発言者がこう尋ねています。「いったいなぜ映画を見ている三時間もの間、苦痛を強要されねばならないのか」と。私はそれに答えたいと思います。
問題は、20世紀に一種の感情のインフレーションが起こっているということです。新聞を読んで、インドネシアで200万人もの人々が殺されたと知ったとき受ける印象が、我が国のホッケー・チームが試合に勝ったという記事をよむときの印象と同じなのです。同じ印象なんですね!ですから私達は、このふたつの事件の間にあるとてつもなく大きな違いに気づかない!実際、知覚の仕方が均質になりすぎているので、それに気づくことができなくなっているのです。しかし私は、こうしたことに関して説教を垂れたいとは思いません。おそらくそうでもしなければ、私たちは生きていけないのでしょう。しかしいろいろな事柄の真の基準がどこにあるのか感じさせてくれる芸術家がいます。彼らは一生のあいだ、この荷を背負い続けてくれる。われわれはそのことで、彼らに感謝しなければなりません。
この最後の発言のために、2時間のくだらない議論をがまんして聞けたのだ。
今は陰でこそこそ愚痴をこぼしたり、憤慨しているときではない。そういう時代は過ぎた。それに不平といういうのは無意味だし、さもしくもみえる。
考えなければならないのは、これから先どう生きるかということだ。さもないと、間違っていろんなことを<ぶちこわし>にしてしまうかもしれない。
損得勘定を問題にしているのではない。わが国の知識人、民衆、文化の生命のことを言っているのだ。
もし芸術の衰退が明らかならば―実際そうなのだが―また、芸術が民衆の魂であるならば、わが民衆、わが国は、魂を深く病んでいるということだ。
1970年9月3日
昨晩、ポーランドの雑誌「キノ」に載せるインタビューのことで、N・P・アブラーモフのところに行った。
彼は感じがよく毒気のない人間だが、おそろしいほどに知識がない。映画の本質について私が考えていることや、SF観を話したら、有頂天になった。
自分ではこうした問題を一度も考えたことがないのだろうか。
著書を二冊くれた。紋切型の書き方で中身もからっぽだ。退屈な本。
老人たち―あのゲラーシモフ一党は、本当に虚栄心が強い! 名声や称賛、褒章を、喉から手が出るほど欲しがっている!
恐らくそれでとる映画が良くなると思っているのだ。あさましい連中だ。低俗な作品で金を稼いている気の毒なディレッタント。それなのに完全なプロとして扱わなければならないのだ。ちなみにハイゼは賢明にもこう言っている。
「ディレッタントとは、できもしないことをやることに喜びを感じる奇妙な人のことである。」
画家や詩人、作家と称する人で仕事ができる状態じゃないと思っている人は気の毒だ。厳密に言うと、儲けることができないだけなのだ。
生きていくためだけなら、たいしてお金はいらない。創作は自由なのである。もちろん、本を出版したり作品を展示したりしなければならない。しかしそれが駄目でも、一番肝心なこと―創作はできる。許可など誰にも求めなくていい。
映画にはそれができない。政府の許可がなければ一コマたりとも撮ることができない。
自主製作などもってのほかだ。そんなことをしたら、窃盗、イデオロギー的攻撃、破壊工作とみなされるのがおちだ。
才能があるのに出版ができないからといって書くのをやめたら、作家ではない。創作意欲が芸術家を生み出すのであり、それは才能のひとつなのだ。
1970年9月5日
宗教、哲学、芸術―これは、世界を支える三本の柱である。人間がこれらのものを発明したのは、無限の理念を象徴的に具現化し、その理念を理解可能なその象徴と対照するためである(むろんこれは文字通りの意味では不可能だが)。
これほどスケールの大きなものを、人類はほかには見出していない。
実際、人間はこれを本能的に見出したのだ。神(生きるのが楽になる!)や、哲学(あらゆることを、人生の意味さえも、説明してくれる!)や芸術(不死)がなんのためのものか、理解していたわけではない。
人間の生の長さがごく短いということを考えてみれば、無限の理念が考え出されたというのはすばらしいことだ。この理念そのものが無限的である。実際、この構造全体の基準が人間なのかどうか、私にはまだ確信がもてない。もしかしたら基準は植物なのかもしれない!基準は存在しない。もしくはそれは至る所に存在する―宇宙のもっとも小さな粒子のなかにさえも。だとすると人間にとっては不都合なことになる。人間は多くのものを断念しなければならなくなるだろう。そのとき人間は自然にとって不要のものとなるからだ。いずれにせよ、人間はこの地球上で自分が無限と対峙していることを理解したのだ。
しかしこうしたことはどれも、単なる錯覚にすぎないかもしれない。実際、意味が存在するのかどうか、誰も照明できないのだ。それに実際、誰かが証明しようものなら(もちろん自分自身にたいしてだが)、そのときは気が狂うだけだ。彼にとって生きることが無意味になるのだから。
H・G・ウェルズに『りんご』という小説がある。認識の木から採れたりんごを食べるのを人々がいかに恐れたかという話だ。
非凡な着想である。死後訪れるのが<無>であり、<空虚>であり、知ったかぶりが言うように、夢のない眠りであるなどとは、到底信じられない。誰も夢のない眠りなど知らない。人はただ寝入り(これは覚えている)、そして目覚める(これも覚えている)だけだ。その間に何があったのかは、覚えていない。だが、何かがあったのだ! 思い出せないだけなのである。
生きることには、もちろんどんな意味もない。意味があったら人間は自由でなくなる。意味の奴隷になり、人間の生はまったく別の、新しいカテゴリー、奴隷のカテゴリーによって形づくられることになる。
それは動物のカテゴリーと同じだ。動物の生の意味は、生命そのもの、種の存続の中にある。
動物が奴隷のような仕事に従事しているのは、生の意味に本能的に気が付いているからだ。それゆえ、動物の領域は閉じられている。
だが、人間には絶対に到達したいという強い願望がある。
1970年9月7日
われわれの子どもはどうなるのだろう。多くのことがわれわれにかかっている。だが、子供たち自身にもかかっている。子供たちのなかに、自由を希求する心を育てなければならない。これはわれわれの責任だ。奴隷状態に生まれた人を、そこから引き離すのは難しい。
一面では、次の世代がなんらかのやすらぎを得てほしいが、別の面から見れば、やすらぎは危険物である。やすらぎは、われわれの魂のなかの小市民性、プチブル根性を引き寄せる。こうしたものが精神的にはびこることがなければいいが。
なによりも重要なのは、子供たちのなかに自尊心とプライドを育てることだ。
『白い日』は是が非でも撮らなければならない。これもそうした仕事の一部であり、義務だ。
自分は誰にもまったく必要とされていない人間だと感じるのは、なんと恐ろしく、嫌な経験だろう。第一、そんなことは決してないのだ。そんな見方は、無理やりにでもなければ出てこない。あらゆることに眼をつむるのでなければ。
いまはそうした人がたくさんいる。