ゲンロン戦記の余白に [X日目]

[X日目]

K 『ゲンロン戦記』で東さんに興味を持った人には、無料で視聴できるコンテンツだけでも視聴してほしいですね。無料のものだけでもかなりあると思います。

 

A まあ、そうだね。

 

K たとえば、ニコニコ動画に「ゲンロンカフェ完全ガイド」が2014年4月~10月まで隔月で放送したものが残ってますが、どれも見逃せないですね。『ゲンロン戦記』で経営者の悲哀がよかったという声があったかと思うんですが、もう「ゲンロンカフェ完全ガイド」には、それがこれでもかと残ってます。

 

A そりゃあ、もう大変だったからね。

 

K 『ゲンロン戦記』に載せきれないエピソードがたっぷりありますよね。僕は、カフェに砂を運び込んだ話とか、FC2で試験的に放送した話とか好きですね。

 

A あー、あったなあ。何月号だろう。

 

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K それから、ニコニコ動画に残っているものとして「東浩紀 × 宮台真司 『父として考える』」がありますね。これも、とても見てほしい動画です。

 

A たしかに宮台さんはぼくにとってとても重要な人ですね。毎年、定期的にあって対談しています。

 

K そうですね。有料ですが、どの回もはずれなしだと思います。有料まではちょっとという人もいるかと思いますが、「東浩紀 × 宮台真司 『父として考える』」だけでも、かなり東さんのことを知れるのではと思います。久しぶりに観ましたが、いやー、この動画の東さんかっこいいなぁ。

 

A え、なにどうしたの?

 

K いやー、東さんって『もののけ姫』のアシタカですよね。涙がでてきたなぁ。『もののけ姫』でアシタカがサン(もののけ姫)に「生きろ。そなたは美しい」って言うじゃないですか。それだなって。

 

A なにか、分からないけれど、気持ち悪い感じになりそうだから、次に行こうか。

 

K いえ、説明させてください。この『父として考える』で、東さんと宮台さんは対立をしていますよね。これが重要なんです。この対立は『一般意思 2.0』の―対談 日本的リベラリズムの夢―の宇野重規さんと東浩紀さんの対談でも再演されている。分かりやすく言うと、社交的な人間と非社交的な人間の対立。社交性がないとダメっしょ生き残れないよという、や宮台さんや宇野さんに対して、東さんはなんとか抵抗を試みている。

 『もののけ姫』で、モロがサンに「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!」といいますよね。動物にもなりきれず、かといって人間にもなれない。これはオタクのことだと思うんですよ。少なくとも、東さんが守ろうとしていたオタクは多分、そういう種類の人たち。僕もそういう人間だったから、東さんの声に出会ったときには嬉しかったなぁ。

 

A 君の気持ちは分かったよ。でも、だいぶ気持ち悪い感じになってるからやめよう。君は自分を「もののけ姫」だって言っているのは、とりようによってはだいぶ・・・

 

K いえ、やめないですよ!そもそも、オタクは気持ち悪いもんなんですよ!というか、気持ち悪いものが生きたらダメだなんて、そんなことないでしょう。「ナウシカ」のオウムだってモチーフはダンゴムシで、宮崎駿さんの奥さんがダンゴムシを「気持ち悪い」って言ったことを覚えていてつくったといような話があってですね。そうだ、東さんが「オタクはなんで気持ち悪いか」考えてるっってどこかで言ってましたよね。僕も考えているんですよ。なんで気持ち悪いんですかね、気持ち悪いってなんでしょう。

 

A 参ったなぁ。きみ、お酒飲んでる?というか、いつ帰るの?

ゲンロン戦記の余白に

ゲンロン戦記の余白に

 

東さん!『ゲンロン戦記』読みました。僕は嬉しいですよ!あれ、飲み会で僕と話をした時のアイデアですよね。名もない受講生の一人との話を覚えていてくれて、形にしてくれるなんて!やっぱり、僕は東さんと出会ってよかった!

 

え、なんだ、なんだ。違うよ、おーい変なやつが来ちゃったよ。誰か対応してくれる?

 

あ、徳久さん。覚えていますか?飲み会でクイズについて、ゲーセンについて熱く語ったことを。そして、批評再成塾が終わったあと、ゲンロンの社員になりたいって言ってたことを。覚えてますよね!

 

ほら、徳久くんも覚えてないってよ

 

どうして、なんですか徳久さん!クイズの問題と解答はあんなに覚えているのに、僕とのことを覚えていないなんて。

 

徳久はそういうやつだから仕方がない!それで、君のいうことが本当だとして、何をしに来たの?まさか、『ゲンロン戦記』のアイデアは、僕が発端だからお金をくれとか、そういうやばいやつ?

 

何を言っているんですか!悲しいですよ。僕がそんなやつだと思っているんですか!僕は批評再成塾で「高橋源一郎」さんの言葉を知って、本当にそうだなと思ったんですよ。いいですか!高橋さんは次のように言っていてですね。

 

[「あの日の高橋源一郎」より引用すること]

 

君の熱さはよーく分かった。けれど、何をしに来たのかが分からないな。

 

そうでした!今回、僕が来たのはですね。『ゲンロン戦記』は素晴らしかった。でも、もっといいものにできると思うんです。読者の全員とは言いません『ゲンロン戦記』で東さんを知って、でも、どの動画を見ればいいか分からない。あるいは、もっとマニアックに東さんを知りたいと思った人の助けになりたい。そう思ったんですよ!

 

お、おう。

 

東さん、思いませんか!ソクラテスの元にも、僕のような人間が現れたと思うんです。その時、ソクラテスはどのように対応したでしょうか。

 

分かった。確かに、ソクラテスも今の僕のように困っていたことはあった気がする。君の気がすむまで聞こうじゃないか。気が済んだら帰るんだよ。

 

ありがとうございます!

 

[1日目]

まず、ゲンロン11の[悪の愚かさについて2]読みました!素晴らしかったです。

 

あ、直近の仕事からいくんだ。まあ、ありがとう。

 

あそこには、自分が考えていたことが書かれていたように思いました。すごく嬉しかった。その思いを抱いた瞬間、ふと、あの事件のことが思い浮かびました。

 

うん。

 

あの事件が起きた時、自分も批評再生塾で創作活動をしていました。だから、他人事のように思えなかった。大変なことが起こったと感じた。

あの事件も、[悪の愚かさについて2]のように、自分と犯人の境界をはっきりとさせて考えるだけではなく、自分にとって地続きなのだと考えなければいけない。言い換えれば・・・

あれは、自分もなりえた姿ではないかと考えなければいけないように思った。創作に真剣に取り組めば取り組むほど、あるいは何かの作品にのめり込めばのめり込むほど、「あれ、これは自分のアイデアではないか?」という経験をするのではないかと思うんです。もし、そうだとするのならば、あんなに酷たらしい事件はありません。熱心なファンになりえた人間が、最悪の災厄をもたらしたんです。どうして、そのようなことが起こってしまったのか。考えていたら、小林秀雄の声のようなものが聞こえました。「文化というものが病んでいるんです」と。小林秀雄は、世界には第一の自然と第二の自然があると言いました。第一の自然に豊かさがあるように、第二の自然にも豊かさがある。あ、最近、すごくいいゲームが出たんですよ「サクナヒメ」っていうんです。何がいいって、うんこが出てくるんですよ。作物を育てて、食べて、うんこをして、うんこも肥料として重要なアイテムになる。そういえば、「デスストランディング」にも、排泄するスキットが出てきて、おしっことかうんことかが武器として使えるんです。こういった要素を含んだゲームが日本からヒットしたのは大変に意味があると思うんです。

 

なんとなく、きみが言いたいことが分かったから、そろそろ僕が話してもいいかな。

 

お願いします。

 

君が話そうとしていることは、僕がどうしてシラスを作ったかにつながる話だと思います。僕は2000年代、インターネットがとてもいい場所のように思えました。僕が小松左京を好きなのは、君も知っているよね?

 

小松左京の話をしますか!まず、なにから。

 

うん。とりあえず、僕の話を聞こうか。小松さんは『廃墟の空間文明』という評論を書いている。[説明]

ぼくは、インターネットという空間が、小松さんが描いた戦後の焼け跡の「廃墟空間」のように思えた。可能性に満ちあふれていると。

けれど、インターネットという空間は少しずつ様相を変えてしまった。可能性にみちあふれていたように思えた空間は、むしろ、どんどんと可能性を吸収していくものになってしまった。

 

だから、シラスをつくったんですよね。

 

まあ、そうだね。僕をみんなに知ってもらいたいわりには、話をすごい飛躍させるんだね。

 

すみません。

 

簡単なことなんです。インターネットは、すべてをフラットにしてしまう。森というものがいかに生物の多様性に必要なものかということは分かるね?

 

はい。アマゾンの森林の_____には、植物の○○%が植生していて、それは薬剤の材料となる可能性を秘めており、人類にとって至宝となりうる場所です。でも、森林伐採は進んでいて_____

 

そう。種の多様性を担保するのは、様々な条件下におかれた環境なんです。もし、木々すべてを伐採し、平地にしてしまったらどうなるだろうか。これが、文化でも起こっている。YouTubeがあるね。あれは、原理としては誰でもみることができる。そして、視聴回数という単一のパラメーターで評価される。だとすれば、どのようなコンテンツが生き残るのか。これは恐ろしいことです。

 

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あの『天穂のサクナヒメ』の話をさせてもらってもよろしいでしょうか。

 

そういえば、そのゲームは最近でたものだね。ぼくは知らないな。

 

まず、フロイトの『対象の心の中へのとりこみ(introjection)』について、おさえたいと思います。

フロイトはこの対象の同一化を、ちょうど、食物を食べて身体に取り入れるように、対象の心の中へのとりこみ(introjection)という原始的な機制によるものと想定していたようである。フロイトは次のように述べている。

 

自我はこの対象を取り入れて合体しようとし、リビドー発達の口唇期または食人期にふさわしく、食べるという方法をとる。

 

フロイトのこの概念に触れたとき、すごいと震えました。これで、多くの事象が説明できるからです。たとえば、熱心なファンが突如としてアンチになるというのもこれで説明できますし、今、右派も左派も同じような姿にみえるのも説明できるんです。

 

どういうことかな?

 

たとえば、にくむべき相手を取り込んだとします。憎むべき相手=不快の対象です。でも、不快の対象をいつまでも見てはいない。不快からの解放は快です。不快な対象は、微量ながら快をもたらします。だから、不快な相手を見続けると、微量な快が次第に大きくなっていつしか愛着のようなものをもって、最悪には自分がその不快と同じ姿になってしまうんです。

その逆は、よくある話ですね。好きな人と電話すると心地よい。でも、いつまでも電話をすることはできない。

 

うん。だいぶ、自分なりのフロイト解釈だとは思うけれど、もうすこし聞こうか。

 

『天穂のサクナヒメ』では、プレイヤーと仲間は稲作をして収穫物を食べます。食べることによってステータスアップするというだけでなく、何を食べたかによって排泄物のパラメーターが変わってくるんです。(ちなみに食べる食材は、稲作によるものだけではなく狩猟採集であつめたものもあります)そして、その排泄物のパラメーターによって、稲作の出来に変化がでる。

 ぼくは、これが「観客」を育てなければいけないということにつながると思ったんです。観客=消費者は、クリエイター=生産者のつくったものを取り込みます。同様にして生産者も観客のつくったもの(コメントとか感想とか)を取り込みます。それが、次のコンテンツの出来に変化をもたらす。本来、コンテンツの消費と生産はこのように循環しているものです。だから、コンテンツは生産者だけがつくっているのではない、消費者も重要な作り手なんです。だから、生産者は消費者がどんなものを食べているのかということが大切で、それは、YouTubeのようなどんな相手が見ているか分からない場では(もちろん、小さなコミュニティでは可能なのかもしれない)管理できない。

 これはどうして、信者ではダメかという話にもつながります。おんなじものしか食べていない人たちの排泄物では、新しいものは生まれない。パラメーターが少し変化することによって、新しいものがうまれる。

『タルコフスキー日記』 抜粋①

1970年9月1日

古い書類をかきまわしていたら、大学での『ルブリョフ』をめぐる討議の速記録がでてきた。

どうしてこんなにレベルが低いんだろう!お粗末でくだらない。

しかしひとつだけ。レーニン賞を受賞した数学教授マーニン(まだ30歳そこそこだ)の発言はよかった。私も同じ意見だ。もちろん、自分のことを言うわけにはいかない。だが『アンドレイ・ルブリョフ』を撮っているとき、私も同じように感じていた。だからマーニンには感謝しなくてはならない。

 

ほとんどすべての発言者がこう尋ねています。「いったいなぜ映画を見ている三時間もの間、苦痛を強要されねばならないのか」と。私はそれに答えたいと思います。

問題は、20世紀に一種の感情のインフレーションが起こっているということです。新聞を読んで、インドネシアで200万人もの人々が殺されたと知ったとき受ける印象が、我が国のホッケー・チームが試合に勝ったという記事をよむときの印象と同じなのです。同じ印象なんですね!ですから私達は、このふたつの事件の間にあるとてつもなく大きな違いに気づかない!実際、知覚の仕方が均質になりすぎているので、それに気づくことができなくなっているのです。しかし私は、こうしたことに関して説教を垂れたいとは思いません。おそらくそうでもしなければ、私たちは生きていけないのでしょう。しかしいろいろな事柄の真の基準がどこにあるのか感じさせてくれる芸術家がいます。彼らは一生のあいだ、この荷を背負い続けてくれる。われわれはそのことで、彼らに感謝しなければなりません。

 この最後の発言のために、2時間のくだらない議論をがまんして聞けたのだ。

今は陰でこそこそ愚痴をこぼしたり、憤慨しているときではない。そういう時代は過ぎた。それに不平といういうのは無意味だし、さもしくもみえる。

考えなければならないのは、これから先どう生きるかということだ。さもないと、間違っていろんなことを<ぶちこわし>にしてしまうかもしれない。

損得勘定を問題にしているのではない。わが国の知識人、民衆、文化の生命のことを言っているのだ。

もし芸術の衰退が明らかならば―実際そうなのだが―また、芸術が民衆の魂であるならば、わが民衆、わが国は、魂を深く病んでいるということだ。

 

1970年9月3日

昨晩、ポーランドの雑誌「キノ」に載せるインタビューのことで、N・P・アブラーモフのところに行った。

彼は感じがよく毒気のない人間だが、おそろしいほどに知識がない。映画の本質について私が考えていることや、SF観を話したら、有頂天になった。

自分ではこうした問題を一度も考えたことがないのだろうか。

著書を二冊くれた。紋切型の書き方で中身もからっぽだ。退屈な本。

老人たち―あのゲラーシモフ一党は、本当に虚栄心が強い! 名声や称賛、褒章を、喉から手が出るほど欲しがっている!

恐らくそれでとる映画が良くなると思っているのだ。あさましい連中だ。低俗な作品で金を稼いている気の毒なディレッタント。それなのに完全なプロとして扱わなければならないのだ。ちなみにハイゼは賢明にもこう言っている。

ディレッタントとは、できもしないことをやることに喜びを感じる奇妙な人のことである。」

画家や詩人、作家と称する人で仕事ができる状態じゃないと思っている人は気の毒だ。厳密に言うと、儲けることができないだけなのだ。

生きていくためだけなら、たいしてお金はいらない。創作は自由なのである。もちろん、本を出版したり作品を展示したりしなければならない。しかしそれが駄目でも、一番肝心なこと―創作はできる。許可など誰にも求めなくていい。

映画にはそれができない。政府の許可がなければ一コマたりとも撮ることができない。

自主製作などもってのほかだ。そんなことをしたら、窃盗、イデオロギー的攻撃、破壊工作とみなされるのがおちだ。

才能があるのに出版ができないからといって書くのをやめたら、作家ではない。創作意欲が芸術家を生み出すのであり、それは才能のひとつなのだ。

 

1970年9月5日

宗教、哲学、芸術―これは、世界を支える三本の柱である。人間がこれらのものを発明したのは、無限の理念を象徴的に具現化し、その理念を理解可能なその象徴と対照するためである(むろんこれは文字通りの意味では不可能だが)。

これほどスケールの大きなものを、人類はほかには見出していない。

実際、人間はこれを本能的に見出したのだ。神(生きるのが楽になる!)や、哲学(あらゆることを、人生の意味さえも、説明してくれる!)や芸術(不死)がなんのためのものか、理解していたわけではない。

人間の生の長さがごく短いということを考えてみれば、無限の理念が考え出されたというのはすばらしいことだ。この理念そのものが無限的である。実際、この構造全体の基準が人間なのかどうか、私にはまだ確信がもてない。もしかしたら基準は植物なのかもしれない!基準は存在しない。もしくはそれは至る所に存在する―宇宙のもっとも小さな粒子のなかにさえも。だとすると人間にとっては不都合なことになる。人間は多くのものを断念しなければならなくなるだろう。そのとき人間は自然にとって不要のものとなるからだ。いずれにせよ、人間はこの地球上で自分が無限と対峙していることを理解したのだ。

しかしこうしたことはどれも、単なる錯覚にすぎないかもしれない。実際、意味が存在するのかどうか、誰も照明できないのだ。それに実際、誰かが証明しようものなら(もちろん自分自身にたいしてだが)、そのときは気が狂うだけだ。彼にとって生きることが無意味になるのだから。

 

H・G・ウェルズに『りんご』という小説がある。認識の木から採れたりんごを食べるのを人々がいかに恐れたかという話だ。

非凡な着想である。死後訪れるのが<無>であり、<空虚>であり、知ったかぶりが言うように、夢のない眠りであるなどとは、到底信じられない。誰も夢のない眠りなど知らない。人はただ寝入り(これは覚えている)、そして目覚める(これも覚えている)だけだ。その間に何があったのかは、覚えていない。だが、何かがあったのだ! 思い出せないだけなのである。

生きることには、もちろんどんな意味もない。意味があったら人間は自由でなくなる。意味の奴隷になり、人間の生はまったく別の、新しいカテゴリー、奴隷のカテゴリーによって形づくられることになる。

それは動物のカテゴリーと同じだ。動物の生の意味は、生命そのもの、種の存続の中にある。

動物が奴隷のような仕事に従事しているのは、生の意味に本能的に気が付いているからだ。それゆえ、動物の領域は閉じられている。

だが、人間には絶対に到達したいという強い願望がある。

 

1970年9月7日

われわれの子どもはどうなるのだろう。多くのことがわれわれにかかっている。だが、子供たち自身にもかかっている。子供たちのなかに、自由を希求する心を育てなければならない。これはわれわれの責任だ。奴隷状態に生まれた人を、そこから引き離すのは難しい。

一面では、次の世代がなんらかのやすらぎを得てほしいが、別の面から見れば、やすらぎは危険物である。やすらぎは、われわれの魂のなかの小市民性、プチブル根性を引き寄せる。こうしたものが精神的にはびこることがなければいいが。

なによりも重要なのは、子供たちのなかに自尊心とプライドを育てることだ。

『白い日』は是が非でも撮らなければならない。これもそうした仕事の一部であり、義務だ。

自分は誰にもまったく必要とされていない人間だと感じるのは、なんと恐ろしく、嫌な経験だろう。第一、そんなことは決してないのだ。そんな見方は、無理やりにでもなければ出てこない。あらゆることに眼をつむるのでなければ。

いまはそうした人がたくさんいる。