ゲンロン戦記の余白に

ゲンロン戦記の余白に

 

東さん!『ゲンロン戦記』読みました。僕は嬉しいですよ!あれ、飲み会で僕と話をした時のアイデアですよね。名もない受講生の一人との話を覚えていてくれて、形にしてくれるなんて!やっぱり、僕は東さんと出会ってよかった!

 

え、なんだ、なんだ。違うよ、おーい変なやつが来ちゃったよ。誰か対応してくれる?

 

あ、徳久さん。覚えていますか?飲み会でクイズについて、ゲーセンについて熱く語ったことを。そして、批評再成塾が終わったあと、ゲンロンの社員になりたいって言ってたことを。覚えてますよね!

 

ほら、徳久くんも覚えてないってよ

 

どうして、なんですか徳久さん!クイズの問題と解答はあんなに覚えているのに、僕とのことを覚えていないなんて。

 

徳久はそういうやつだから仕方がない!それで、君のいうことが本当だとして、何をしに来たの?まさか、『ゲンロン戦記』のアイデアは、僕が発端だからお金をくれとか、そういうやばいやつ?

 

何を言っているんですか!悲しいですよ。僕がそんなやつだと思っているんですか!僕は批評再成塾で「高橋源一郎」さんの言葉を知って、本当にそうだなと思ったんですよ。いいですか!高橋さんは次のように言っていてですね。

 

[「あの日の高橋源一郎」より引用すること]

 

君の熱さはよーく分かった。けれど、何をしに来たのかが分からないな。

 

そうでした!今回、僕が来たのはですね。『ゲンロン戦記』は素晴らしかった。でも、もっといいものにできると思うんです。読者の全員とは言いません『ゲンロン戦記』で東さんを知って、でも、どの動画を見ればいいか分からない。あるいは、もっとマニアックに東さんを知りたいと思った人の助けになりたい。そう思ったんですよ!

 

お、おう。

 

東さん、思いませんか!ソクラテスの元にも、僕のような人間が現れたと思うんです。その時、ソクラテスはどのように対応したでしょうか。

 

分かった。確かに、ソクラテスも今の僕のように困っていたことはあった気がする。君の気がすむまで聞こうじゃないか。気が済んだら帰るんだよ。

 

ありがとうございます!

 

[1日目]

まず、ゲンロン11の[悪の愚かさについて2]読みました!素晴らしかったです。

 

あ、直近の仕事からいくんだ。まあ、ありがとう。

 

あそこには、自分が考えていたことが書かれていたように思いました。すごく嬉しかった。その思いを抱いた瞬間、ふと、あの事件のことが思い浮かびました。

 

うん。

 

あの事件が起きた時、自分も批評再生塾で創作活動をしていました。だから、他人事のように思えなかった。大変なことが起こったと感じた。

あの事件も、[悪の愚かさについて2]のように、自分と犯人の境界をはっきりとさせて考えるだけではなく、自分にとって地続きなのだと考えなければいけない。言い換えれば・・・

あれは、自分もなりえた姿ではないかと考えなければいけないように思った。創作に真剣に取り組めば取り組むほど、あるいは何かの作品にのめり込めばのめり込むほど、「あれ、これは自分のアイデアではないか?」という経験をするのではないかと思うんです。もし、そうだとするのならば、あんなに酷たらしい事件はありません。熱心なファンになりえた人間が、最悪の災厄をもたらしたんです。どうして、そのようなことが起こってしまったのか。考えていたら、小林秀雄の声のようなものが聞こえました。「文化というものが病んでいるんです」と。小林秀雄は、世界には第一の自然と第二の自然があると言いました。第一の自然に豊かさがあるように、第二の自然にも豊かさがある。あ、最近、すごくいいゲームが出たんですよ「サクナヒメ」っていうんです。何がいいって、うんこが出てくるんですよ。作物を育てて、食べて、うんこをして、うんこも肥料として重要なアイテムになる。そういえば、「デスストランディング」にも、排泄するスキットが出てきて、おしっことかうんことかが武器として使えるんです。こういった要素を含んだゲームが日本からヒットしたのは大変に意味があると思うんです。

 

なんとなく、きみが言いたいことが分かったから、そろそろ僕が話してもいいかな。

 

お願いします。

 

君が話そうとしていることは、僕がどうしてシラスを作ったかにつながる話だと思います。僕は2000年代、インターネットがとてもいい場所のように思えました。僕が小松左京を好きなのは、君も知っているよね?

 

小松左京の話をしますか!まず、なにから。

 

うん。とりあえず、僕の話を聞こうか。小松さんは『廃墟の空間文明』という評論を書いている。[説明]

ぼくは、インターネットという空間が、小松さんが描いた戦後の焼け跡の「廃墟空間」のように思えた。可能性に満ちあふれていると。

けれど、インターネットという空間は少しずつ様相を変えてしまった。可能性にみちあふれていたように思えた空間は、むしろ、どんどんと可能性を吸収していくものになってしまった。

 

だから、シラスをつくったんですよね。

 

まあ、そうだね。僕をみんなに知ってもらいたいわりには、話をすごい飛躍させるんだね。

 

すみません。

 

簡単なことなんです。インターネットは、すべてをフラットにしてしまう。森というものがいかに生物の多様性に必要なものかということは分かるね?

 

はい。アマゾンの森林の_____には、植物の○○%が植生していて、それは薬剤の材料となる可能性を秘めており、人類にとって至宝となりうる場所です。でも、森林伐採は進んでいて_____

 

そう。種の多様性を担保するのは、様々な条件下におかれた環境なんです。もし、木々すべてを伐採し、平地にしてしまったらどうなるだろうか。これが、文化でも起こっている。YouTubeがあるね。あれは、原理としては誰でもみることができる。そして、視聴回数という単一のパラメーターで評価される。だとすれば、どのようなコンテンツが生き残るのか。これは恐ろしいことです。

 

 [under_construction]

 

あの『天穂のサクナヒメ』の話をさせてもらってもよろしいでしょうか。

 

そういえば、そのゲームは最近でたものだね。ぼくは知らないな。

 

まず、フロイトの『対象の心の中へのとりこみ(introjection)』について、おさえたいと思います。

フロイトはこの対象の同一化を、ちょうど、食物を食べて身体に取り入れるように、対象の心の中へのとりこみ(introjection)という原始的な機制によるものと想定していたようである。フロイトは次のように述べている。

 

自我はこの対象を取り入れて合体しようとし、リビドー発達の口唇期または食人期にふさわしく、食べるという方法をとる。

 

フロイトのこの概念に触れたとき、すごいと震えました。これで、多くの事象が説明できるからです。たとえば、熱心なファンが突如としてアンチになるというのもこれで説明できますし、今、右派も左派も同じような姿にみえるのも説明できるんです。

 

どういうことかな?

 

たとえば、にくむべき相手を取り込んだとします。憎むべき相手=不快の対象です。でも、不快の対象をいつまでも見てはいない。不快からの解放は快です。不快な対象は、微量ながら快をもたらします。だから、不快な相手を見続けると、微量な快が次第に大きくなっていつしか愛着のようなものをもって、最悪には自分がその不快と同じ姿になってしまうんです。

その逆は、よくある話ですね。好きな人と電話すると心地よい。でも、いつまでも電話をすることはできない。

 

うん。だいぶ、自分なりのフロイト解釈だとは思うけれど、もうすこし聞こうか。

 

『天穂のサクナヒメ』では、プレイヤーと仲間は稲作をして収穫物を食べます。食べることによってステータスアップするというだけでなく、何を食べたかによって排泄物のパラメーターが変わってくるんです。(ちなみに食べる食材は、稲作によるものだけではなく狩猟採集であつめたものもあります)そして、その排泄物のパラメーターによって、稲作の出来に変化がでる。

 ぼくは、これが「観客」を育てなければいけないということにつながると思ったんです。観客=消費者は、クリエイター=生産者のつくったものを取り込みます。同様にして生産者も観客のつくったもの(コメントとか感想とか)を取り込みます。それが、次のコンテンツの出来に変化をもたらす。本来、コンテンツの消費と生産はこのように循環しているものです。だから、コンテンツは生産者だけがつくっているのではない、消費者も重要な作り手なんです。だから、生産者は消費者がどんなものを食べているのかということが大切で、それは、YouTubeのようなどんな相手が見ているか分からない場では(もちろん、小さなコミュニティでは可能なのかもしれない)管理できない。

 これはどうして、信者ではダメかという話にもつながります。おんなじものしか食べていない人たちの排泄物では、新しいものは生まれない。パラメーターが少し変化することによって、新しいものがうまれる。